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暗い暗い森の中、ひたすらに彼は歩いた。
視界は真っ黒で何も見えないし、裸足のまま追い立てられたせいで地面に落ちていた石や木の枝を踏んで足にいくつも傷を作った。喉はからからに乾いていて、思い出したかのように空腹感がそれを追ってくる。ただ、それよりも何よりも、彼は恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
村の人達とは、少し距離があるとは思っていた。けれど、先程の彼らは、敵意をむき出しにして彼を異物として追い出そうとする彼らは、恐ろしくて怖くて仕方がなかった。普段は温厚なおばさん。農業をサボって昼寝をしていた気のいいおじさん。たまに追いかけっこをして遊んだ子供達。その誰も彼もが、皆ひとつの生き物のように同じ意志を持って、彼を追い込んで、追い出した。
だから、彼はくたくたに疲れてもお腹が空いても喉が渇いても、何かから逃げるように歩き続けていた。実際、彼はずっとずっと後ろから声に追われていた。頭にいつまでも響く、罵りの声だ。
木の幹に体をぶつけて、バランスを崩して尻餅をつく。べしゃり、と地面がぬかるんでいるのにようやくそこで気が付いた。手探りで地面を探ると、水たまりのようなものがある事が確認できて、彼はそこに顔を近付ける。泥臭い臭いが鼻をついて、それでもひりついた喉は水分を求めていて。耐え切れずに近づけたそのままに水面があるであろう場所に舌を伸ばした。味は分からない。気にしないようにしている、と言った方が良いのだろうか、それでもその水気は、彼にとっては十分にありがたいものだった。
ひとしきり泥水を啜った後に立とうとして、手足に力が入らない事に気が付いた。ああ、きっと疲れてるんだ。寝れば、寝て起きれば、きっともう一度動けるから。
自分に言い聞かせて、彼はそのままぬかるんだ地面に身を預けた。ひやりと冷たい土が体温を奪って寒かったけれど、彼にはもう立ち上がる気力は残っていなかった。ゆるやかに瞼を閉じて、暗闇の更に暗闇へと意識を落す。
「… 、」
*****
「…イユ、…ロカイユ」
「…?」
名前を呼ばれて目が覚めた。さて誰の声だったかと寝ぼけた頭ですん、と匂いを伺うと、独特の薬品の匂いが鼻腔をくすぐって、そこでようやくその人物と経緯に思い当たって髪の毛を掻き回しながら声がした方向に顔を向ける。
「…ジョエルか、どうしたんだ」
その気配の先にはジョエルがいるはずで、案の定その気配は少しだけ首を傾けるような動きを見せた。どうやらいつも身に付けている自分の上着のファーを気に入ったのか、彼は時々それ目当てで昼寝にやって来る。今回もそんな流れだったように思うが、いつもは他人を起こすような事などしないような人物の筈だった。投げ掛けた疑問に、彼はボソボソと応える。
「うなされてたから、起こした方が良いかと思って」
「うなされてた?」
指摘されてようやく気付く。妙に体が冷えると思ったら、結構な汗をかいていたらしい。うなされていたという事実と共に夢の内容もぼんやりと思い出して、思わず眉を顰めた。
いつかの遠い日の記憶。結局誰からも助けは来ないで、自力で抜けた暗い森の先には更に酷い場所が待っていた。そんな事を、自分でも知らなかった時の夢だ。
自然と苦虫を噛み潰したような顔になっていたのだろう。それとなくジョエルの不安げな雰囲気を察して、軽くフォローを挟む。
「俺は問題ないから、気にするな」
「…そう」
「何か変な事でも言っていたなら、忘れてくれ」
こくり、と頷いた気配がして、もぞもぞと彼は身支度をし始めた。どうやらもう帰るつもりらしい。ふと、客人用に買い置きしてあった菓子を思い出して、早々とドアに向かおうとしていたジョエルの背中に声を掛ける。
「菓子、持って帰るなら包むが」
「いる」
「そうか、じゃあ少し待っててくれ」
何か土産物を提案した際に即答されるのはいつもの事なので気にならない。彼はそういう人間、らしい。深くを知るつもりはないが、付き合っている内に分かる程度の人となりは理解して許容しているつもりだった。さてテーブルの何処に置いたかと卓上を探っていると、ぽつりと独り言のような声が聞こえた。どうやら待ち惚けていたジョエルの声らしい。
「…言ってたよ」
「…?」
「とうさん、って」
思わず手の動きが止まる。今更過去を掘り返されたところでどうもならないと思っていたが、蓋をしたい記憶が疼く中でのその言葉に、どろり、と煮詰めたコールタールのように思い出や記憶が緩やかに流れ出て来てしまう。少しの沈黙の後、ようやく動かし直した手にかさり、と紙袋の感触が触れた。その感触で我に帰ると、そのままの勢いで紙袋をジョエルの方に差し出す。
「…菓子だ。食え」
「うん」
「あと、忘れろ」
「…うん」
菓子を口止めと思ったのか、彼はすんなりと頷いた。これがもっとタチの悪い連中だったらと思うと、ある意味聞かれたのがジョエルで良かったのかも知れない。彼は物事を損得の秤でしか測れないらしい。が、だからこそ、ある程度の代償を積めば、こちらを裏切る事もない。少し淡白過ぎるのが難点と言えるかも知れないが、騒がしくねちっこいよりかは自分にとって付き合いやすい人間だと思う。
紙袋を受け取ったジョエルはその後特に何も言わずに部屋を出て行った。ばたん、と扉が閉まる音を聞いて肩から力を抜き、先程まで寝そべっていた日当たりの良い床ではなく、日陰になっているソファへと腰掛ける。二度寝も考えたが、この流れだとまた嫌な夢を見るかも知れない。
「…とうさん、か」
ぽつりと溢したのは、うわ言で言っていたという言葉。
元はと言えば今受けている呪いは父のものだった筈で、かと言って父が恨めしい訳ではなかった。そもそも、何故こんな呪いを生み出した理由がずっと分からないでいた。父は過ぎる程のお人好しで、毒を用いた魔法も誰かに害を与える為ではなく治療の為に研究しているような人だったからだ。
けれど、あの日父は暴発した呪いをその身に直に受けて死んでしまった。おぞましい花を咲かせるこの呪いを、一体父は何に使おうと、もしくは誰に使おうとしていたのだろうか。
「…父さんは、一体何を考えていたんだ?」
(問の答えは、未だに見えず)