久方振りに旧友が訪ねて来たと知らせを受けて顔を見に行けば、そこに居たのは傷付き疲弊した一匹の黒狐だった。
ニンゲンから受けたものだろうか、弓矢で受けたであろう傷が生々しく、彼を知らない幼い獣は木々の影からその姿を怯えたように伺っていた。対して、彼を知る者達はその身を気遣うように心配そうに様子を見ながらも、並々ならない様子に手を出すこともままならないようだった。人の姿ではないが、それもまた友の姿のひとつである事を森の主は知っている。どうすれば良いかと己を見上げる森のアヤカシや獣達の頭を安心させるように撫で、木の実と水を持ってきてくれるように頼んで下がらせた後に、よろめく彼に無言で目配せをして誘うように先導し森を歩く。
いつも彼が好んで潜む草影に辿り着いてようやく、彼はその場所に身を横たえた。森の主は細長い龍のような己の体を屈ませて、狐の毛並みをそっと撫ぜながら静かに口を開く。
「九十九松に居たと噂には聞いていたが。どうやら良くない事があったようだ」
ぴんと張った彼の琴線に触れたのだろうか。伏せられていた碧い目が鋭く森の主を見る。普段は静かな湖畔のような眼の色すら今は風雨に荒れて揺れる深い深い水底のようで、森の主はそれ以上の言葉を噤んだ。詳しいことは森の主には分からなかったが、それでも彼が纏う血の匂いや憎悪の念を見れば事の一部を想像するくらいは出来る。彼が何も言わないのは、恐らくこの森に厄介事を持ち込みたくないと思っての事なのだろう。その気遣いが彼らしくもあり、また、事の重大さを物語ってもいた。
「…せめて、その傷くらいはこの森で癒して行くと良い。暫くの間、怪しげな者が森に立ち入るようならば私が追い払っておこう」
そう言うと、森の主は立ち上がって彼に背を向ける。何も語らないのならば、何かを聞く道理でも無いだろうと。木の実と水を運んで来た森の住民に彼の際にそれを置くように指示し、「食べたくなったらお食べ」とだけ残してその場を後にする。その後をぞろぞろと付いて来た森の民達が、森の主にこぞって小声で声を掛けた。
「あるじさま、良いのですか?あのまま放っておいて」
「そうですよう、血も出てたし、死んでしまうやも」
「やくそう、つんできましょうか」
どうやら彼はここでも人気者らしいと心配そうな言葉の数々に少し口元を綻ばせて、森の主はゆるやかに首を振る。
「あれはきっと、必要以上の施しは受け取らないだろう。そういう奴だからね」
「でも…」
「…私達に迷惑にならないようにと、あれなりの配慮だ。無下にも出来ぬさ」
森ぐるみで彼を庇えば、きっと少なくない災いが起こる事柄に彼は巻き込まれているのだろう。それでも、森の主は良く月見に訪ねてくる彼を森の仲間だと認識していた。だからこそ、彼の矜持と優しさを折らない範囲で、せめて森の主として力になりたいと考えていた。
…しかし、数日の後に彼の黒狐が姿を消したと、そして、宵闇横丁から月が消えたと聞いて、森の主は彼にしては珍しく、小さく、そして深く息を吐いた。
森を抱える身であるが故に、仕方の無い事ではあると理解はしていた。割り切ってもいた。それでも、長きを生きる龍にとって、旧い友や仲間が一時であれ居なくなってしまうという事は深く悲しい出来事に他ならなかった。
アヤカシの頭領であろうとヒトにとっての厄災者であろうと、それでも彼は美しいものを愛し、共に月見をするただの良き友であったのだから。森を投げ打って助ける事は叶わず、そしてそれを望むような度量でもないと知りながら、それでも。
「…友の一人も救えぬとは、不甲斐無い龍よな」
誰にともなく溢し、森の半身からは見えなくなってしまった月を想って空を見上げる。そこに昇るあめつちの月も幾分か色褪せてしまったように見えて、ただただ、森の主である龍は嘆くように夜空を仰ぎ続けた。
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